20100116

ここしばらく、実はこっそりと来る21日のワークショップの準備をしている。この前借りてきた本をちょっとずつかじりながら。内容は「なぜ科学技術の問題に市民参加が求められるのか」について、理論的な考察を行うような感じのこと。よく「欠如モデルからの脱却」や「トランス・サイエンス」が市民参加の理由として挙げられているけど、それらは理由としては弱いと思う。なぜならば、それらは「今までのやり方ではもう太刀打ちできない」ということは示すけれども、ではなぜ市民参加でなければならないのかということを示していない。あくまで消極的理由であって、積極的に市民参加を選択するものではない。

おそらく、deliberative democracy*1あたりがおそらく現段階ではもっともありそうな答えではないかなと考えている。もちろん、熟議民主主義と他のタイプの民主主義(たとえば現行の選挙制度など)とをどうやって接続するかということは大いに問題なんだけれども。

アメリカで実験的に行われたdeliberative dayとかはまぁ選挙の2週間前とかに祝日を設けて、その日に熟議を行って、意見を形成しつつ、その後選挙みたいな流れなんだけど、やっぱり難しい。被選挙者からすればそんな熟議を望まないかもしれない。そもそも、そこでコンセンサスは目指されるべきなのだろうか…。

こうしたことを考えるにあたって、裁判員制度から学ぶことはかなり多いように思う。

*1:deliberativeには個人による熟考と他人との討議の両方の意味が籠められているため、訳語が揺れている。熟慮民主主義、討議民主主義、熟議民主主義などと訳されることが多い。